BLUE LEAF Acro yoga

アナタは私、私はアナタ

ヨガ

こんにちは、Miuです。


さてさて、
今日は哲学のお話でございます。

ヨガ哲学って文字だけみると、
すごいヨガしてる人が学ぶ感じとか
難しそうなイメージがあるかもしれない。
ヨガスートラ読もうとか言われると
一気に引く自分がいるのも確か(笑)

スートラ読みなさいっていう先生もいるし、
読むなっていう先生もいるし、
おそらくどっちでもいい。
いや、よくないかもしれないが
私はそう思ってるから読んでない(笑)
というか日本語なのに読めないから読まない。
理解できないものを
無理して読む必要ないだろうという自己流哲学。

と、いうような形で
哲学って一応教科書みたいなものがあるんだけど
解釈の仕方は人それぞれで、
先生が教えてるのもその先生流哲学なんだと思う。

なので今日は
みう流哲学をつらつらと書いていきます!






3人いれば3通りの哲学がある



ヨガの教えで、
「アナタは私、私はアナタ」
という教えがあります。

最近学びに行ってる哲学の講座で教えてくれた。
分かりやすい例えだと
ティッシュが一枚あり、
「これはティッシュですか?」
と聞かれると当然そうですとなる。
そのティッシュの端を小さくちぎって、
「これはティッシュですか?」
と聞かれると少し悩んでゴミです…と答えたりする。

今この世に存在してるものは、
何かに頼った状態で存在してる。
ティッシュのクズ(端)→ティッシュ→紙→
紙の成分→その成分の元素→ブラフマン

最後にくるのがブラフマン。
これだけは何にも頼らずに存在してるもの。
全ての始まりといえばいいのかな?

人間も同じ。
人間→タンパク質とか皮膚とか成分→それの構成元素
→ブラフマン

と、最終的にはブラフマンにいきつく。
ということで全てのものは源は同じで、
全ては同じ(一体)なんですよという教えなんです。

ただ、全部が同じで全部がみうだとすると、
「ティッシュとって」が「みうとって」
みうがみうに話しかけて、みうにみうを…
とかなるとまじで不便なので、
それぞれに別の名前を作ったらしいです。

という教えを知っていて、
そーなんだなーぐらいにしか思ってなかったんですが、
つい最近そういうことかあという気づきがありました。



前の記事で書いてたトレーナー同士で
プチレッスンした時。
実際、私めちゃめちゃ出来良かったと思うんですよ。
リーダーにも褒めてもらえたし。
(これは後の記事で書きます)

その中で良かった人選出となった時、
確実私やと思ってた(笑)







が、選ばれなかった。がーん。






と、その時にふと浮かんだ考え。

みんな同じなら、
自分が1番にならなくていいのか。

元はみんな同じで一つなら、
どの立場とかも関係ない。
後輩も自分の上司も芸能人もケンハラクマでさえ、
同じ存在で、
上も下もなく、大きな源の一部なんだ。

ただ、入れ物(体)が違うから
その中でできないことは代わりに違う一部(人)が
やってくれる。

優しい人は
優しさの一部として、
怒る人は
怒りの一部として、
その部分を担当してくれてるのかもしれない。


私はみんなの一部として、
いろんな役割を担当してる。

相手と自分を分けて考えると、
私なんて…
っていう比較が生まれてくる。
けど、みんな同じって思ったら
比較とか関係ない。

両手にすくった水を右や左で分けないし、
差があるとも思わない。



うまく言葉にできないけど。
負けず嫌いの悔しさから言い聞かせるために
でてきた考えかもしれないけど、
なんか心がふわっとした。

私のできないことは、
だれかがやってくれたりする。
だれかが何かをやっているのは、
私に全く関係ないわけじゃない。
怒ったり、泣いたり、喜んだり、
誰かが私の代わりにやってくれてたりするのかもしれない。

誰かを傷つけると、
同じ存在だから、自分も傷つく。
誰かを大事にすると
自分も大事にできたことになる。



最近は
アクロヨガでたかちゃんと喧嘩することが多くて。
たかちゃんに文句を言ってるとき、
自分にも負の感情が生まれてくる。
相手を大切に思ってないときって
自分の心も大切にできてない。
相手が悲しそうだと、
自分も悲しくなるもんね。

お互いが思いやると
自分もあったかくなる。

すべてはつながってるし、
どこにも敵はいなくて、
みんなが一体。




こうやって、
ヨガの考えと日常がつながる瞬間が大好きだ。


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