おはようございます。Takafumiです。旦那の方です。
何で読んだかは忘れてしまいましたが、欧米のビジネスの場では初対面の相手に対して「What do you do?」と聞くそうです。しかし日本の場合多くは「What are you?」という聞き方をするそうです。
どっちも日本語での略は「あなたの何をされているのですか?」という意味になります。
しかし「What do you do?」は「どんな行動をしていて、どんな成果をだしていますか?」という意味になり、「What are you?」は「どんな会社でどのような役職ですか?」といったニュアンスになるそうです。簡単に言うと「あなたは何者か」という質問をしているのです。
しかし「What do you do?」は働いてる会社や肩書きではなく、どんなことをやり遂げたかいうところをフォーカスしていて、その人の肩書きでなく、その人自身をしっかりと知ろうとしているのだなと思います。
この話を読んだ時に、自分も相手が〇〇の社長さんだとか、〇〇の先生というだけですごい人だと思ったり、若くて役職がない方を自分のほうが社会人の経験が多いと下に見てしまっていたことがあったなと思います。
そういった反応をしてしまう自分は「肩書きという」ただの言葉に囚われていたなと感じています。
バガボンドという漫画で宮本武蔵が柳生石舟斎に「天下無双」とは何か聞いた時に柳生石舟斎は「武蔵よ、天下無双とは、ただの言葉じゃ」というセリフがあります。
天下無双というものは人がつくった、ただの言葉で、その言葉にとらわれている間は見えるものも見えなくなる。天下無双という他人が作った肩書きにこだわらなければ可能性は無限に広がるという意味だと私は解釈しています。
肩書きにこだわらなければ無用な戦いをすることもなく晩年の武蔵は死合をしなくなったとも言います。戦わなくなった武蔵に興味がなくなった人も多かったのかもしれません。それまで武蔵が天下無双という言葉にこだわって自分自身で敵を作り続けたからなのかもしれません。
私自身も勝手に人をライバル視したり、自分の中のイメージでその人に価値付をしてしまったりとしていたことが多くあったなと、どれもイメージで事実ではない。本来であれば、その人が今何をしているのかという事実こそが大切なはずなのに。そこには過去に何をしていたかということも関係ない。
しかし、昔こんなことがあったということで、その人を昔のイメージのままレッテルを張り決めつけたりしていたなと思います。
とても狭い世界で物事を判断し、可能性を狭めてきたのだなと思います。
他にも仏教の話で、お釈迦様が在世の頃、クシャトリアという王族の出身だった、お釈迦様がシュードラ(カースト制度の最下層の奴隷)に声をかけました。しかし当時は身分が違う者同士が会話をするということなどもってのほか、そのシュードラは「頼むから、わたしに声をかけないでください。」と拒んだそうです。
しかしお釈迦様は、そのシュードラには悟りを開く素質があると感じ、出家を進めました。
お釈迦さまは、心ある入門者に対しては誰であろうと「エーヒ、ビック(よく来たね、修行者よ)」と優しく声をかけ、入門者を歓迎したといいます。
当時、お釈迦様に声をかけて頂くということは、とてつもない出来事だったようですが、それをも拒むカースト制度の影響力がいかに強力なものだったかがこの出来事で理解できます。
当時では「絶対にあり得ない」ことを受け入れる仏教は、現代でいう経歴や学歴、社会的地位、職業、資産の多寡、能力などは一切関係ない、まさに平等の世界です。
仏教の教えにあるように、私も狭い物差しで人を見るのではなく「肩書きや過去にとらわれない」広い視野と心で見るような人になりたいと思います。
ちなみに平等な仏教とはいえ、すべての人受け入れるわけではなかったようです。あまりにも心が汚れている人、悪人は受け入れられないこともあったようです。
慈悲喜捨の教えで言う「捨」の人が当てはまるのかもしれません。
そのような人には無頓着で、心が汚れていること、自分が悪人でいることを悲しんでいる人には同情し寄り添ってあげることが大切という教えです。
※慈悲喜捨の教えについては下記の記事
慈悲喜捨の精神「心の反応を変えていく」
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